介護者を生きる

グループホーム職員による介護のはなし

姥捨て山とは言うけれど

先日ある入居者の方のサービス担当者会議がありました。

その際にご家族が言っていたことで印象に残ったことがありました。

 

そのご家族は入居者の方の娘さんなのですが、どちらかと言うと親の認知症の進行についてネガティブな気持ちを抱いていたようです。

どうかして認知症の進行を遅らせる取り組みをして欲しいと、よくご要望を頂きました。

それはそれでおそらく本人を大切にしたいという気持ちもあってのことなんだと思います。

ホームで過ごされて数年がたち、その入居者の方もだいぶ認知症の進行がみられています。

変わっていく姿を見ていく中で、娘さんなりに多くのことを考えたと思います。

 

そして、今日の会議の中で、その入居者の方が昔とても心配性だったことを挙げられ、

どんな形であれ、いまはそうして何かにつけて心配して心を悩ましている様子がみられないことで、わずかながらも認知症という姿を肯定的に受け止められた、というお話をされました。

そういう考え方もあるものかと個人的には勉強になりました。

 

ただ、ほんとに心配性でなくなったのか、心配しなくて済むようになったことは幸せなのか、それは誰にもわからないことだと思います。

心の中では今でも大きな心配を抱えながらもそれを上手く表現できなくなっているだけかもしれません。

また、心配性で悩んで、それが解消された時に、生きる喜びを感じていたとしたら、心配することがなくなったのが必ずしも望ましいことかはわかりません。

誰かのことを心配していたとしたら、それは一つの優しさで、そんな彼女の心配性に助けられた方もいたことでしょう。

 

介護施設の存在意義に関するひとつの考え方として、高齢者を世俗から隔離して、穏やかに生活して頂く、というものもあるようです。

世俗の人間関係や社会との関わりといった煩わしいものから守るという考え方です。

正しいかどうかは別として、それも一つの思いやりではあるのだと思います。

ただ、やはり本当に本人のためになっているのかは、考え続けていく必要があるでしょう。

 

心配性の彼女が、さしあたりそうでなくなったように見えるということが果たして良いのか悪いのかはすぐにはわかりませんが、

そうしたことで家族である娘さんの気持ちを少し楽にしてあげられたということは、

たぶん彼女にとっては良いことなのだろうと個人的には思っています。

 

ご家族の認知症の受け止め方にもいろいろな形があることがわかります。

入居者の方のありのままの姿を受け入れることを目指すのと同じように、

そんな一つひとつのご家族の姿も、ありのまま受け入れ、寄り添っていけたらと思います。

誇り高い者

私のグループホームでは、食事はみんなで同じメニューをできるだけ一緒に食べるようにしています。

なので起床の際には職員が入居者の方を起こすということを行うことがよくあります。

 

私自身、朝起こされるのが嫌なものですので、個人的には

できるだけ入居者の方がご自分で目覚めるのを待っていることが多いのですが、

そうすると起きる時間がバラバラになって、遅い方に合わせると早めに起床した方が長く待つことになったり、

早い方に合わせると、遅く起きた方は皆がいるなかでひとり食事をとることになったりします。

何がいいかは考え続けないといけないことですが、

ひとつこんなことを考えました。

 

それは昔入居されていた方のことですが、

その方は最年長でもあり、とても育ちが良さそうというか立居振舞いにしつけが施されているというか、一言で言うと「とてもきちんとした方」でした。

 

その方は、毎朝5時ころになるとまだ暗いうちから起床にとりかかります。

そして誰よりも早く更衣・整容などの支度を済ませ、朝食準備を手伝ってくれたりしながら

他の方が起きるのをゆっくり待たれます。

そういう生き方をする方でした。

 

しかし、月日を重ねるにしたがい、だんだんとご自分の力ではそうした生活を保つことが出来なくなり、

声をかけなければ起床されなくなったり、また支度に介助が必要になった関係で職員が順番に手伝いに来るのを待たなければならなくなりました。

いつしか朝一番にその方が待っているという風景は失われていきました。

 

寝ている者を無理に起こさない、これだけで大きな間違いを犯しているとはあまり考えられません。

しかし望ましいケアと考えた際には、必ずしも正しいとも限りません。

 

介護者の役割は相手の尊厳を保つこと、つまり誇り高い者であり続けられるような支援を行うことだと考えます。

最年長の自覚があり、皆の手本として朝一番にきちんと支度を済ませて待つ。その方が誇りとしてきた生き方のはずです。

それを知っている介護者ならば、あるいはその生き方を続けられるような支援をしていくことがあるべき姿であるということも考えなくてはなりません。

 

ある種、寝ていてくれるのをいいことに、介護者の都合で順番を後回しにする。そうできてしまう。

例えばそれにより、他の方から「あの方は年長者なのにあんなに遅く起きてきてだらしがない」と思われていたら、

あるいはそれは介護者が思わせてしまっているのかもしれません。

介護者が、相手の誇り高い生き方に関心がなければ、その方を堕落させてしまっていることにもなりかねないのかもしれません。

 

これは難しい問題で、何が正しいかはみんなで考えていかなければなりません。

 

ただ、認知症であっても、人は、特に高齢者は誇り高い者であり、支援者次第では最後までその誇り高い生き方を失わずにいつづけられるということは、

これからも信じていきたいと思います。

また来ます

介護に限らないことだと思いますが、1日の勤務が終わって帰るとき、それまでの恰好から着替えます。

すると、入居者さんはなんとなく「ああどこか行くんだな」と気が付きます。

うちのグループホームは職員のロッカーがユニットの奥にあるため、着替えた後も入居者さんたちのいるリビングを通っていくことになります。

その際「今日も有難うございました」と言ったり、言われたりするのですが、

「帰るの?」と聞かれることもあります。

また職員によっては「帰りますね」と笑顔であいさつしているひともいます。

 

そんな時入居者さんは「さびしい」と言ってくれることがあります。

冗談で言う人もいれば、本気の人もいます。そして、そのどちらかは誰にでもすぐにわかります。

 

本気で「あなたが帰ったらさみしい」と言われて、職員はふつう喜びます。

実際、そこまで関係性が進展していることは素晴らしいことだと思います。

しかし、その場面でうれしいのは職員だけであり、言った方は、やっぱりさみしいのです。

 

私もいつかそのことを考えて、お互いに前向きにその日を別れる方法はないかと考えました。

そして、今では「帰る」という言葉は極力使わず、

「また来ますね」と言うようにしています。

そう言うと、相手は「よろしくね」とか「わかった」とか言うのですが、

なんとなく表情は前向きに見えます。

 

他にもいろいろ方法はあると思いますが、

「また来ますね」はなかなかいい言葉だと思っています。

こころとからだ

よく、介護の仕事をしていますとひとに言うと

「重労働と聞くけど、腰とかだいじょうぶ?」とか「他人の下の世話ができるなんてすごい」という言葉が返ってきます。

そういうとき、私はふっと「ああそういえばそういう仕事でもあるんだった」と思い出します。

たしかに世間的に介護とはそうしたイメージなんだと思います。

ただ、実際に介護の仕事をしてみると、そうした身体介護はほんの一部分だけだということがわかります。

 

もちろん、三大介護と言われる食事介助、入浴介助、排泄介助はどんな介護現場にも存在しています。

しかし、それだけで相手の生活、もっと言えば人生が成り立っているわけではありません。

特に、私が働いているグループホームというところは入居施設であり、入居者さんの現在の生活、つまり人生のほとんど全部がそこに存在しています。

そう考えると、やはり入浴・食事・排泄だけが支援の対象ではないということがわかります。

 

私が大切だと考える介護士の役割は主に3つあります。

①相手の尊厳を保つ

②相手の力を引き出す

③相手のこころに寄り添う

ひとことで言えば、「共にある」ということです。

振り返れば、入居者さんたちとの思い出や、介護職としてのやりがいなどは、すべてこの役割の中につまっている気がします。

こうした役割の一部として、しっかり三大介護も存在しています。

ただ、入居者の方が身体のケアだけを求めているかというと、そうではないでしょう。

 

もし、身体介護だけで介護が成り立つとするならば、もっと機械化・システム化していくべきだと思います。

排泄介助時、相手がモノである方が恥ずかしくないと思いますし、

移乗などの安定感や事故リスクの面を考えてみても、機械が勝るでしょう。

いいことの方が多いように思います。

しかし、あるとき入居者の方が言っていました。

「機械に介護されるなんておそろしい。それなら死んだ方がマシや」

なぜかは聞きませんでしたが、私なりの解釈としては、

やはりこころとからだ、両方の支援があって初めて生活・人生の支援と言えるからなのではないかと思いました。

 

今までの歴史の中で、おそらくからだの支援が優先されてきたところがあるような気がします。

時代の流れの中で「思いやり」や「寄り添う気持ち」が求められるようになってきていると感じています。

いつか介護の仕事というイメージに、そうしたこころの支援という部分も含まれるようになればいいなと思います。

明日からもがんばります。

私にとってあなたは大切です

退居の決まった方、いちおうNさんとしておきましょう。

Nさんはガンコおやじというかヘリクツおやじというか、あまのじゃくなところがあったり。

そして機嫌が悪くなったり大きく混乱したりすると、ちょっと対応が難しかったり。

われわれスタッフも、何度か‘手を焼いた’ようなこともありました。

 

ある日、後輩のひとりが私に聞きました。

「Nさんのこと、好きですか?」

私はしばらく考えて、

「うちのホームに入ってくれたのだから私にとって大切な人だとは思う。でも、好きかどうかはわからない。」

 

それからしばらく経って、退居が決まって。

今、私はNさんがいなくなることに寂しさを感じているし、

今は好きなんだと思います。

もし退居する話がなくなったら、ホッとして、喜ぶような気がします。

 

考えてみれば、何かを好きになるのには、少し時間が必要なのかもしれません。

好きかわからないと言ったあとにも、Nさんとの関わりが上手く行ったり、行かなかったり、いろいろでした。

でもそんな一つひとつの思い出を重ねていくうちに、

気が付けば好きになっていたのだと思います。

 

介護において、相手に伝えるメッセージには大事なものが3つあると言われています。

①私はあなたに会えてうれしい

②私にとってあなたは大切な存在です

③あなたのために私が出来ること教えてください

このメッセージが伝えられたり、伝えられなかったりして、

そして最後には相手を好きになっていくんだと思います。

 

お別れになるまで、このメッセージを伝え続けていきたいと思います。

今日のこと

今日出勤したときに聞いた話。

入居者の方が1名、退去されるそうです。

突然のニュースでした。

どうもご家族の意向ということみたいです。

 

その方は入居してからまだ3か月くらいです。

ホームに馴染んでいるかというと、何とも言えません。

環境が変わったこともあって、ストレスもあったと思います。

興奮状態がみられることも何度かありました。

そうしたことをご家族にもご報告しているのですが、

どちらかというとそういうネガティブな報告が多かったみたいで

ひょっとしたらご家族がホームに対して申し訳なさを感じて・・・という可能性もあるという話です。

 

その方は、今日も入浴にお誘いしたところ

約束の時間が上手く伝わっておらず、怒ってしまわれました。

それはある種仕方のないところであり、時間の伝え方や入浴の約束・ご案内方法など

まだまだ工夫していけるところだと思うのですが、

こういう時、ご家族様にはおそらく「入浴に誘ったら激怒されました」という伝わり方をしているのかもしれません。

ご家族にご本人の様子をこまめに伝えることは大切ですが、

伝えられるご家族の感情にも配慮していかないといけないと思いました。